いつか爆発する日記 DAY2
非常に美しい空気の夜なので、文章を書き始めた。
雨が降ったからだろうか、窓から木々や土の芳香が静かに漂ってくる。私もその空気の中に解き放たれ、溶けていなくなってしまいそうである。
今は街のあちこちに芽吹く新緑、その揺らぎに圧倒され、自分の輪郭がさらわれてしまうかも知れない季節のはずだ。
はず、と書いたのは、今年はまだ自分の目でそれを見ることができていないからだ。
自転車を走らせればそれを目にすることはできるだろうが、私の心は、なぜか今この街に住んでいることすらも否定しようとしている。
私は今新緑と対峙できるほどに、自分であることを保つことができないのかもしれない。
Cat Powerというシンガーソングライターが自然の中で歌うパフォーマンスを思い出す。
彼女もまた、自然に静かに溶け込んでいくように見える。
Cat Power - Speaking For Trees Part 1 of 2
今、また好きな映画作品について考えを巡らせている。
Moonlight (2017) Official Trailer [HD]
バリージェンキンス「ムーンライト」はアカデミー作品賞も受賞し、既に評価されつくしているが、自分自身にとって特別な意味をもつ作品である。
その詳細な理由はさておき、「ムーンライト」のように深刻に好きな作品はほかにもあって、「ムーンライト」と深い関係をもつウォンカーワイの「ブエノスアイレスHappy Together」は圧倒されすぎて見返すことすらできていない。
「ムーンライト」も、初めて見た時の記憶を何度も想起することで、糧を得ようとしかけていたが、改めて考えるためにコロナ禍の今見直した。
主人公シャロンの細い体を背後から追うバックショットの多用や、チョップドアンドスクリュードという極端に原曲のピッチを落としてミックスするヒップホップの手法が取り入れらたことについて考えている。
少なくとも、主人公シャロンが危うく支えのない世界に取り囲まれ、故に自分を支えるための背骨を得ることができないまま、世界を浮遊せざるを得ないこと、
それでもシャロンは成長を志向するが、そんな彼に世界は軋轢を与えることによって壊れそうなほどに変形させてしまう様を描いているように思われる。
一度絶命しかけたシャロンの繊細な自己が、しかしその後ケヴィンと出会い再び支えを得ようとするところまでを描いているところに感動させられるのだが。(第三部「ブラック」)
私を支えているのは、落ち込みながらもこれまでの記憶の断片をつかみ、なにかを考えている今の自分の経験そのものである。
私はまだ消えるわけにはいかないのだ。
いつか爆発する日記 DAY1
コロナの影響を受け、私を取り巻くほとんどのことが様変わりしてから1週間が経った。
人に少し漏らしたが、長い時間を一人で過ごすことは爆発しそうな心境をもたらす。
果たしてこれがどのようなことなのか、自分でもわからない。
あらゆることがうまくいっていない気がする。
自分が全くの無価値であるような気になってくる。
もう人と親密に過ごすことは自分の人生には訪れないのではないか、と目覚めるたびに思う。
自分が好調なのか不調なのかが全く分からないときがある。
親しかった人との距離がわからず、以前のように付き合えないのではないかと疑心暗鬼に陥る。
心理的な隔離(要するにひきこもること)を得意としていたはずの自分だが、社会的隔離の経験は、集合性を中核理念としていた社会を前提としたものに過ぎない、つまりは集団があり、集団における紐帯があるからこそそれに身を置くことも退くことも、自由意志として判断が残されている場合にのみ、自分の得意分野だったのだ。
今は家にいながら、外側に意識を向けようとするが、それには物理的限界があるので、必然的に自分のこれまでのことに注意が向いてしまう。
要するに、昔のことをよく思い出すということだ。
まっすぐの道を歩いてきたと思うときもあれば、アディクションに苦しんだ時期のこと、優秀な人達に囲まれて虚勢を張り、内面の疲弊に長く気づかなかったこと、母のこと、父のこと、昔の知人、友人たちのこと…。
これはなかなか苦しい。
この苦しさをどう表現すればいいのかわからないが、今のところ自分も社会も先行きが見えにくいことが関係していることは間違いないと思う。
今週の月曜日(2020年4月13日)もなかなか苦しい日だった。
月曜日であり、かつ気温は低く雨が降っている。換気のために開けた窓からは冷たく湿った風が吹き込んで部屋を満たした。心まで凍えるようだ、あの映画に似ているかも、などど考えを巡らせた結果、ひとつの映画作品を思い出した。雨とは直接関係ない。連想の終着点である。ルイ・マルの「ダメージ」(1992)である。
主体的に映画を見ようと方向づけられた決定的な作品として、私はこの作品を挙げるだろう。もうひとつはベルトルッチの「ラストタンゴインパリ」(1972)。どちらも若い女と年をとった男の性愛を描いているという意味で共通している気はするが、私の中での結節点は、思春期の頃に“息を潜めて観た”映画、ということが大きいかもしれない。
今はどうなのか全くわからないが、90年代はお茶の間で放映されにくい映画が夜中流れていた。衛星放送なども一般的ではなかった時期だったと記憶している。
だので、なにか見たことのないものを見るためには、夜中に・家族からは眉を顰められる可能性のあるものを・危険を冒して・見なければならない、という観念のもとに、日々勘を働かせながら夜中のテレビを徘徊していた。
ルイ・マルの「ダメージ」は、文字通り思春期の自分をめちゃくちゃに破壊しかねないものだった。性愛の描写に圧倒されたのもあるが、一番の衝撃はジュリエットビノシュの中国陶器のような美しさである。(そしてジュリエットビノシュの職業は古美術商だ。)
今でもちょっと憧れるときがある。仕立てのいいコートの襟を立て、滑らかな革のグローブを身に着けてタイトなドレスを着て黒いタイツと靴を身に着ける、その完璧さに身を包まれたらどんな気分になるのだろう、と。
しかしその後のジュリエットビノシュに、鋭利なナイフのような美しさを備えた役は巡ってきていないと思われる。すなわち、「ダメージ」には、その後二度と目にすることのできない、20代半ばの瞬間的な美しさが充満している。
ジュリエットビノシュは途中まで、完璧さを身にまとっている。満ち足りているようにも見える。しかし、それは壊れてしまうのだ、残酷なまでに。(要するに情事が発覚し、更に大変なことが起きてジュリエットビノシュは憔悴してしまう。)
恐らくは10回以上見返してきている映画だが、一般的な評価としては“ファムファタル”ものかと思う。私も十分にファムファタルのように見えるジュリエットビノシュを堪能してきた。
しかし最近思うのは、完璧なように見えたジュリエットビノシュは(近親姦という)外傷経験からのサバイバーであり、それを周囲が見抜くことができず悲劇が訪れたということだ。こうした主題と、冷淡で娘と対立的な母親はセットである。
要するに彼女はどのような形であれ破綻する可能性があったし、助けが必要な人だったということである。
こうした現実を、私は長いこと受け取れないで来た、要するに、美しさの背後の悲惨さには目を向けられないで来た。しかし私が携わる仕事も、また必要とされることも、現実の悲惨さをそのまま見据えることであるのだ、と最近は思っている。
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ひとまずスーパーエモい過去の日記の続きとして、再開してみたがすでに息切れしてきたな。今更はてな?というお声をどう受け止めていくか、は追々考えるとして。
爆発しないようにできるだけもの思いを文にしていきたいがどうなることか。
Thrown out / Against
私は、もっと私に関わってくれと
叫んでもよかったのだろうか。
喉が裂けても、傷みは残り、それで癒されたかもしれない。
全て失った。失ったことが残った。
私は失ったことから何かを生み出さなければならない。
If You Do Me Good
communicate with me.